クルアーンの教えとは何か?

一人きりで自分と向き合い、深く考え込む疑問はたくさんあります。:

「どうして私はここにいるの、何のために?」

クルアーンは、私達の「起源」について、端的にしかし力強い調子で、論争を投げかけます。

「かれらは無から創られたのではないか。それともかれら自身が創造者なのか。」(52:35)

クルアーンは、私達が理性的理論的疑問によく考え、立ち向かうように促しています。そして私達が自分の起源に関して、結論に到達できることを約束しています。

 

クルアーンが私達に最初に投げかける質問:私達は無から創られたのか?本当に無から何かが出来得るものなのか?

自分自身の個人的経験や、宇宙の法則と照らし合わせても、それは不可能です。私達が無から創られられることは不可能なのです、なぜなら無からは無がうまれるだけだからです。

 

この結論はクルアーンが投げかける次なる可能性へと私達を導きます。:私達は私達自身を創れるのか?つまり何かが自分で自分を創れるのか?

これは自己矛盾です。なぜならあなたがあなた自身を創るためには、あなたはそれ以前に存在していないといけません。存在と、非存在は同時には存在し得ません。これではまるで、あなたの母親が母親自身を産み出すと言っているようなものです。

 

物事が無から存在しえないように、自己創造は理屈に合いません。すると最後の一つの可能性が残ります。創造者の存在です。私達の起源だけでなく、宇宙やそこに存在する全てに対して、それが最適な説明です。直感的でまた真実に合致する説明といえるでしょう:どんな存在も存在するには根拠があり、創造者が存在するのです。

 

この根拠、或いは創造者は、それ自体に根拠があってはいけません。根拠の鎖が決してきれないという不条理があってはいけないのです。端的に言うと、もし世界の根拠に根拠があり、その根拠が根拠を持ち、そして、と永遠に続くとしたら、もう語るべき世界が存在しなくなります。例えば想像してみてください。もしこの本を誰かに渡すまで読めないと言われたとしたら、その誰かがまた他の誰かに渡さなくてはいけないとしたら。そしてこれが永遠に続くとしたら、果たして誰かがこの本を読むことができるでしょうか?答えはノーです。この法則を宇宙に当てはめてみればわかるでしょう。つまり隠された根拠には根拠がなく、理論的必要性からかけ離れているという結論に達します。クルアーンは創造者の被創造性について明確に述べています。:

「お産みなさらないし、お産まれになられたのではない」(112:3)

 

さて、創造者がいる、これは良しとして、私達が目的を持っているとどうしてわかるのでしょうか?この世の全てには目的があります。たとえ椅子や、ボウルや、あなたが手に取っている本といった単純なものにも、目的があります。それなのに私達に目的がないとしたら悲しすぎるというものではないでしょうか?もしよく考え自分の周りの世界を見渡せば、私達にも目的があるという結論に簡単に達することができるはずです。何億もの銀河や何兆もの惑星に溢れる宇宙の広大さに思いを馳せてみましょう。クルアーンは言っています。神はこの全てを理由もなく創られたのではないと。:

「われは天と地、またその間にあるものを、戯れに創ったのではない。」(21:16)

 

太陽は私達に暖かさを与え、雲は雨を、木や動物は食物を与えてくれています。私達の生存のため、そして快適さのために、神は多くのシステムをこの世界の適所に置いてくれました、だから私達にも目的があるはずです。これについてクルアーンは言っています:「アッラーこそは、天と地を創造され、天から雨を降らせ、これによって果実を実らせられ、あなたがたのために御恵みになられる方である。また船をあなたがたに操縦させ、彼の命令によって海上を航行させられる。また川をあなたがたの用に服させられる。また彼は、太陽と月をあなたがたに役立たせ、両者は飽きることなく(軌道)を廻り、また夜と昼をあなたがたの用に役立たせられる。また彼はあなたがたが求める、凡てのものを授けられる。たとえアッラーの恩恵を数え上げても、あなたがたはそれを数えられないであろう。」(14:32−34)

 

そこで再度悩ましい疑問が頭をもたげるでしょう。私達の目的って何?

再びクルアーンは答えています。:

「ジンと人間を創ったのは、われに仕えさせるため。」(51:56)

では、「仕える」とは何でしょうか?多くは礼拝と答えるでしょう。正しいです、しかしクルアーンの言う「仕える」は単に礼拝よりも、もっと遥かに包括的です。創造主を喜ばせる、服従の全ての行為が含まれます。例えば、病気だったら立ち上がって礼拝できません。そのために健康でありたいという意志があれば、体操や食事でさえ「仕える」行為となるのです。

どうして崇拝するのでしょうか?まず理解すべき重要なことは、創造主は私達の崇拝を必要としてはいないということです。現にクルアーンは言っています。崇拝を必要としているのは私達だと。私達は人として、単なる肉と骨ではありません。精神的側面があり、それを育んでいかないといけないのです。物質的には豊か、しかし生きていて幸せではない人はたくさんいます。なぜなら精神的健康をないがしろにしているからです。心身両面の真の平安を経験するには、創造主と同調していなければいけません。:

「アッラーを唱念し、心の安らぎを得る。」(13:28)

生きること一つ一つの側面を、創造主の悦びへと昇華させること。そうすることで、常に心に神を留め、心は平安へと達します。革命的考え方です、しかし同時に実践的です。その人の行動は大きくは変わらないでしょう。しかし行動の裏にある考え方のプロセスが変わるのです。そして人々は現代社会が切望している、内なる平安を見出します。

 

さて、ある疑問が湧き上がります。では神に仕える最良の方法は何か?

携帯電話について考えてみましょう。携帯電話は明らかに人間のように精巧なわけではありません。しかし多くの共通項があります。両者ともに寿命がある。両者とも正しく機能するにはエネルギーが必要。また両者とも正しく取り扱わないと、破損する。携帯電話にトラブルが発生したら、多くの人が最初に行うことは、取扱説明書を参照します。どうして?取扱説明書には最適の取り扱い方法が示されているからです。また私達はすぐに専門家に聞くでしょう。携帯電話の製作者は、その電話の最適な使用方法を心得ています。またその知識を私達に取扱説明書という形で伝えています。同様にクルアーンは、人類を創造したものが発行した取扱説明書のようなものです。クルアーンは私達を創造した神から下されました。神、つまり私達の創造主は、私達を私達自身以上に理解しています。神は、私達がどのように生きるべきかを説いています。だから神の知識、神の導きは、人間が作ったどんな哲学や生き方も、時を超えて凌駕しているのです。

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