なぜ神は災厄を見逃すのか?

人生における試練や辛苦に関するイスラームの考え方は、大変能動的です。天災、災難、悲劇、こうした苦しみや困難の形は、神から与えられた試験と捉えています。この世は一つの盛大なパーティーではなく、むしろ人間は神を崇拝するという崇高な目的のために創造されていると考えます。試験はこの目的の避けられない一部分です。こうした試験は、私達が偉大な目的を思い起こすために役立ち、自己浄化の方法として、ついには神に近づく方法として役立ちます。現に、預言者ムハンマド(彼の上に平安あれ)が言っています。

「神がしもべを愛する時、神はしもべを試験する。」[1]

 

神が自分が愛する者に試練を与えるのはなぜでしょうか?試練や辛苦は神の慈悲に近づく道です。永遠の天国の至福に入る方法なのです。神はこのことをクルアーンで、はっきりと述べています。

「それともあなたがたは、先に過ぎ去った者たちが出会ったような(試みが)まだ訪れない先に(至上の幸福の)園に入ろうと考えるのか。かれらは災難や困窮に見舞われ、(不安の中に)動揺させられて、使徒も、一緒の信者たちも、『アッラーの御助けは、何時(来る)だろう。』と叫んだ程であった。ああ、本当にアッラーの御助けは近付いている。」[2]

 

素晴らしいことには、私達がこうした試練に打ち勝つために必要なすべての方法を、神は与えてくれているのです。

「アッラーは誰にも、その能力以上のものを負わせられない。」[3]

 

一般的に、人生で経験する災厄や苦しみは、稀であり、日常的ではありません。地球の年月に比較した地震同様に、健康に比べると病気は短命です。さらに言えば物事の背景にある知恵を理解できないからと言って、それが存在しないとは言えません。例えば、時として病気は免疫を作ってくれます。地震は地球内部の抑圧された圧力を解放してくれます。噴火は鉱石を吐き出し農業に適した肥沃な土を作ります。昔の格言が言っています。「蛇の毒から解毒剤ができる。」最初に困難を経験することなく、成就が容易であれば感謝できるでしょうか? 病気が存在しないなら、健康に感謝することができるでしょうか? 次のような格言があります。

「この世の災厄は絵画の影の部分のよう。近づけば、それは欠点と見え、しかし後ろに下がって距離を取ると、その影の部分は芸術作品の中の美学的機能を果たすために、必要だと気づくでしょう。」[4]

 

懐疑論者は否定的側面に注目して、災厄や困難はより偉大な目的を果たすものではない、と批判するかもしれません。一方、イスラーム教徒は、試練や辛苦は究極の目的を形成するために必要不可欠だと信じます。クルアーンにはこの考えが強調して記されています。

「(神は)死と生を創られた方である。それは、あなたがたの中誰の行いが優れているのかを試みられるためで、かれは偉力ならびなく寛容であられる。」[5]

 

他の宗教では、この世での人間の高い地位は、その人が神に満悦されていることを示唆すると考えられています。例えば、よい仕事に就いているとか、いい家があるということから考えられることは、神がその人を愛しているということです。しかしながらイスラームでは、健康、財力、窮乏、病気などは成功や失敗を示すものではありません。これらは、特別な状況下に置かれた個々人の対応を神が試験する方法なのです。

 

偽の前提

この世に一定の災厄や困難があることは否定できません。従っていかに人生をより穏やかに送れるかをもっと考えるべきでしょう。

災厄や困難が存在するということは、神の存在の土台を脅かす、と論じる人もいます。これは公平に見て、説得力がある議論でしょうか?

 

この議論は次の文章に要約されます。

「善であり全能の神が、地上の全ての災厄や困難を横行させているとは信じ難い。」

 

この論理を展開すると:

  • A:全能で善である神が存在する。
  • B:災厄や苦悩が存在する。
  • C:よって、全能で善である神は存在しない。

 

論理展開の基本からすると、この結論は演繹的ではないと気づくでしょう。先の2つの前提ABからは、結論Cは必ずしも得られません。むしろ結論Cは推定真実、つまり原則的且つ確率的結論です。災厄に関する結論Cはとても弱い論理展開です。なぜなら2つの偽の前提A’とB’に基づいているためです。

すなわち:

  • 偽の前提A’:神は全能で善だ。
  • 偽の前提B’:神は、災厄や苦悩が蔓延している理由を、人々に伝えていない。

 

神は全能で善だ。偽の前提A’に対する反駁】

 

災厄に関する議論では、イスラームにおける神の概念を誤って伝えています。 神は全能で善でしかないのではなく、むしろ、名前や属性がたくさんあるように、その全てが総体的に捉えられるのです。例えば神の名前の一つに「最も英名なる御方」があります。神の本質そのものが英名であるように、神が望む全てが英名と調和しています。何か背後に英名があれば、そこには目的があります。

それに対して懐疑論者は次のように応答するでしょう。:

「どうして神は私達を、災厄のような方法で試験するのですか?」

この応答はイスラームの概念を誤って理解していることを示し、この懐疑論者は無知からくる議論の誤りを犯していることを示しています。ここで明らかなのは、英知の不理解が、英知の不存在を示すわけではないということです。この論法は幼児に典型的に見られます。幼児は自分がやりたいことに対して両親から咎められることがあります。例えば魅惑的な黄金に輝く茶色の液体、名前はウィスキー、を飲みたいとする。飲ませてくれないママとパパはなんと悪者だとその幼児は泣き、癇癪を起こすかも知れません。それを飲むことが許されない背後にある英知にまだ気付いていないのです。

読者の理解を促す話や談話がクルアーンにはたくさんあります。モーゼとアル・ヒドルの物語をここで紹介しましょう:

「それからかれは(岩のところに戻って来て)、われの一人のしもべ(ヒドル)に会った。われは(あらかじめ)かれに、わが許から慈悲を施し、また直接に知識を授け教えておいたのである。ムーサーはかれに、『あなたに師事させて下さい。あなたが授かっておられる正しい知識を、わたしに御教え下さい。』と言った。かれは(答えて)言った。『あなたは、わたしと一緒には到底耐えられないであろう。あなたの分らないことに関して、どうしてあなたは耐えられようか。』かれ(ムーサー)は言った。『もしアッラーが御好みになられるなら、わたしがよく忍び、また(どんな)事にも、あなたに背かないことが分りましょう。』かれは言った。『もしあなたがわたしに師事するのなら、わたしがあなたに(何かとりたてて)言うまでは、何事に就いても、わたしに尋ねてはならない。』そこで2人が出発して、舟に乗り込むと、かれはそれに穴をあけた。そこでかれ(ムーサー)は言った。『あなたがそれに穴を開けるのは、人びとを溺れさすためですか。あなたは本当に嘆かわしいことをなさいました。』かれは言った。『あなたは、わたしと一緒では耐えられないと、告げなかったか。』かれ(ムーサー)は言った。『わたしが忘れたことを責めないで下さい。また事を、難しくして悩ませないで下さい。』それから2人は歩き出して、一人の男の子に出会ったが、するとかれはこれを殺してしまった。かれ(ムーサー)は言った。『あなたは、人を殺した訳でもない、罪もない人を殺されたのか。本当にあなたは、(かつて聞いたこともない)惨いことをしたものです。』かれは答えて言った。『あなたは、わたしと一緒には耐えられないと、告げなかったか。』かれ(ムーサー)は言った。『今後わたしが、何かに就いてあなたに尋ねたならば、わたしを道連れにしないで下さい。(既に)あなたはわたしからの御許しの願いを、(凡て)御受け入れ下さいました。』それから2人は旅を続けて、或る町の住民の所まで来た。そこの村人に食物を求めたが、かれらは2人を歓待することを拒否した。その時2人は、正に倒れんばかりの壁を見付けて、かれはそれを直してやった。かれ(ムーサー)は言った。『もし望んだならば、それに対してきっと報酬がとれたでしょう』かれは言った。『これでわたしとあなたは御別れである。さて、あなたがよく耐えられなかったことに就いて説明してみよう。舟に就いていうと、それは海で働く或る貧乏人たちの所有であった。わたしがそれを役立たないようにしようとしたのは、かれらの背後に一人の王がいて、凡ての舟を強奪するためであった。男の子に就いていえば、かれの両親は信者であったが、わたしたちは、かれの反抗と不信心が、両親に累を及ぼすことを恐れたのである。それでわたしたちは、主がかれよりも優れた性質の、純潔でもっと孝行な(息子)を、かれら両人のために授けるよう願ったのである。あの壁は町の2人の幼い孤児のもので、その下には、かれらに帰属する財宝が埋めてあり、父親は正しい人物であった。それで主は、かれらが成年に達してから、その財宝をかれら両人のために掘り出すことを望まれた。(これは)主からの御恵みである。わたしが勝手に行ったことではなかったのだ。これがあなたの耐えられなかったことの説明である。』」[6]

上記の節の引用にあたり、クルアーン解釈の古典学者イブン・カスィールは解説している。アル・ヒドルは神が真実の知識を与えた者で、モーゼには与えていません。『あなたは、わたしと一緒には到底耐えられないであろう。』という供述についてイブン・カスィールは説明しています。「私があなたの法に反して行動するのを見た時、あなたは私について来られないでしょう。なぜなら私にはアッラーがあなたに教えられていない知識が与えられています。そしてあなたにはアッラーが私に教えられていない知識が与えられています。」[7]

 

本質的に、神の英知や知識は限界がなく完璧です。一方私達は人間として特別です。言葉を変えると、私達の英知や知識には限りがあります。それ故にイブン・カスィールは次のクルアーンの節に関して説明しています。:

『あなたの分らないことに関して、どうしてあなたは耐えられようか。』は、つまり「あなたが私を非難するのはもっともなことでしょう。私はアッラーの英知を理解し、アッラーの隠された利益を理解できるのです。しかしあなたは理解できないからです。」[8]

 

すべての出来事は聖なる英知と調和しているという考え方は、人々を肯定的に力づけます。 なぜなら神の英知は、完璧さや神性といった神の本質と相反することはないからです。よって全ての災厄や苦しみは究極的に偉大な神の計画の一部分なのです。このことはイスラーム教徒に肯定的な心理反応を生み出します。全ての災厄や苦しみは、最後には英知と善という目的に通じるからです。14世紀の古典学者イブン・タイミーヤはこれを集約して言っています。

「もし高貴なる神が、全ての創造者ならば、神は善も悪も英知ある目的のために創造します。神の行動は、善であり完璧だからです。」[9]

 

神は、世の中に災厄や苦悩が蔓延している理由を示していないのか? 【偽の前提B’に対する反駁】

 

神が世の中に災厄や苦悩の横行を許している正当な理由があることを示す十分な論拠があります。イスラーム神学理論の深い知識は、私達に数多くの理由を明確に示します。

それらは:

  • 人間の最も重要な目的は、儚い幸福感を満喫するのではなく、神を認識し、崇拝することを通じて、奥深い平安に到達することです。この神が与えた目的の成就は永遠の無上の喜びと幸福感をもたらします。もしこれが私達の最重要の目的だとしたら、人間が経験する他の側面は二次的なものです。神は言っています。:「ジンと人間を創ったのはわれに仕えさせるため。」[10]
  • すでに述べたように、神は私達を試験するために創造されました。必然的に苦しみや災厄を経験し試験を受けるということです。クルアーンは言っています。「(かれは)死と生を創られた方である。それは、あなたがたの中誰の行いが優れているのかを試みられるためで、かれは偉力ならびなく寛容であられる。」[11]
  • 困難や苦しみを受け、「最も偉大なる御方」や「最高の癒し手」といった神の特性に気づき理解することができます。例えば、病気の痛みや苦しみがなければ、神が「最高の癒し手」であるという特性に感謝することはないでしょう。神は大義で、苦しみや痛みを経験する価値があると理解することで、最も重要な目的を成就できると言えるでしょう。
  • 苦しみは二次的な善を与えます。一次的善は身体的喜びと幸せです。そして一次的悪は身体的苦痛と悲しみです。二次的善は高められた善、つまり勇気のようなものです。勇気は臆病さがあることで、価値があるのです。
  • 神は私たちに自由意志を与えました。そして自由意志には悪行を選ぶことも含まれます。これは個人的悪、人間によって犯される悪や苦しみです。人は次のように議論するでしょう。どうして神は人間に善か悪の選択権を与えられたのか、どうして私達がいつも確実に善を選ぶようにされなかったのか?

もし私達がいつも確実に善を選ぶようにされたなら、善も悪も意味をなしません。次の例を考えてみましょう。いつも銃弾を込めた銃をあなたの頭に向けている人がいるとします。そしてあなたに寄付を求める。あなたは明らかに寄付するでしょう、しかしそこに道徳的価値があるでしょうか。ありません。

 

結論

問題と認識されている災厄について、その議論に対する回答をこの章で論じてきました。最終的に、災厄や苦しみがないということは完全な完璧を意味します。しかしこれは神のみに許されていることです。地上での生活は、決して非の打ち所がない天国ではありえません。それはこの世俗世界での試験に合格したものだけが獲得できるのです。

参照

[1] Narrated by Tirmidhi.

[2] Qur’an 2:214

[3] Qur’an 2:286

[4] Islamic Theology vs. the Problem of Evil, by Abdal Hakim Murad.

[5] Qur’an 67:2

[6] Qur’an 18:65-82

[7] Tafsir Ibn Kathir

[8] Ibid

[9] Minhaj As-Sunnah 3:142/2:25

[10] Qur’an 51:56-57

[11] Qur’an 67:2

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